『おかえり』 1996年 篠崎誠監督 その6
北沢孝・・・寺島進
アイデアなんて、なかった。
愛しいものが、泣いているなら。。
ただ、抱きしめたい。
後ろから 体温を感じたいと思ったんだ。
夫婦という、関係に捕らわれず、
男と女、
人と人、
人間同士の呼吸があう瞬間だけを、
信じてね。
・・・
新しい男の優しさを表現した寺島進は こう語る。
北沢百合子・・・上村美穂
役を演じていると、
閉ざされた自分が、ふとした瞬間、
楽になるの。
私にも、こういう一面があるんだって。
もう一度、
自分を確認して 好きになる。
それがそのまま、
芝居を好きなことにつながって、
役柄が重なっていく。
私にとって 芝居はそういうものなの。
・・・
少しずつ、精神のバランスを失い、
妄想の世界へと向かってしまう
難しい役どころを、
特殊な人物としてではなく、
現代を懸命に生きる
繊細な、1人の女性として、演じぬいた。
☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
「寺島ナイト」を見終わった後。
帰り道、しにかのみんなで コーヒーショップへ。
そこで、倒れた夫の孝さんを、
妻の百合子さんが 一生懸命に運んだ時の話になって、
「私なら 絶対に運んであげる。」
「私なら、軽々と 運んであげれますー」
「軽そうだもんねー」
・・・話に花が咲いたのが、
とても楽しかった。

↑「寺島ナイト」で頂いたガム。。
食べずに そのまま保管。。。(笑)
・・もったいなくて。。。。ね。
北沢孝・・・寺島進
アイデアなんて、なかった。
愛しいものが、泣いているなら。。
ただ、抱きしめたい。
後ろから 体温を感じたいと思ったんだ。
夫婦という、関係に捕らわれず、
男と女、
人と人、
人間同士の呼吸があう瞬間だけを、
信じてね。
・・・
新しい男の優しさを表現した寺島進は こう語る。
北沢百合子・・・上村美穂
役を演じていると、
閉ざされた自分が、ふとした瞬間、
楽になるの。
私にも、こういう一面があるんだって。
もう一度、
自分を確認して 好きになる。
それがそのまま、
芝居を好きなことにつながって、
役柄が重なっていく。
私にとって 芝居はそういうものなの。
・・・
少しずつ、精神のバランスを失い、
妄想の世界へと向かってしまう
難しい役どころを、
特殊な人物としてではなく、
現代を懸命に生きる
繊細な、1人の女性として、演じぬいた。
☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
「寺島ナイト」を見終わった後。
帰り道、しにかのみんなで コーヒーショップへ。
そこで、倒れた夫の孝さんを、
妻の百合子さんが 一生懸命に運んだ時の話になって、
「私なら 絶対に運んであげる。」
「私なら、軽々と 運んであげれますー」
「軽そうだもんねー」
・・・話に花が咲いたのが、
とても楽しかった。

↑「寺島ナイト」で頂いたガム。。
食べずに そのまま保管。。。(笑)
・・もったいなくて。。。。ね。
『おかえり』 1996年 篠崎誠監督 その5
☆☆☆ なにげない日常のドキュメント ☆☆☆
高橋伸吾(精神科医)
1.「どうでもいいこと」
昔から男にとって まどろっこしい女のおしゃべりほど
嫌なものはない。
私は 精神科医だから、
患者さんのながながとした愚痴を聞かされるのには慣れている。
しかし、相手が患者さんという関係性があるために
それは聞くに堪えるのであって、
もしこれが亭主だったら さぞ大変だろうなと思うことは、
ままある。
いや男にも、女性のようにおしゃべりが好きな人種はいるもので、
女にとっても、男の語りは退屈である。
男と女が知り合って、
愛し合い、いつでも会っていたいという恋愛の初期においては、
語ることは喜びでもある。
互いに道の部分があるから、
語り合うことで 異なる世界を共有するという楽しさがある。
しかし それは普通長くは続かない。
「言葉につまるようじゃ、故意もおわりね(愛しのエリー)」
ではないが、言葉の切れ目が、男女の切れ目でもある。
要するに、男女は語るのに飽きるのだ。
大体それは三年目、
遺伝子のしわざという説もある。
しかし、稀には、サルトルとボーボワールのように、
生涯が互いに楽しい会話の相手であった夫婦も
いないわけではないが、それはふつうではない。
映画『おかえり』のなかで、
百合子が次のようなセリフを語る。
”孝が忙しいのはわかってる”
でも”たまには どうでもいいこと話したいの。
話したいんだよ。”と。
どこの夫婦でも 交わされているこんな語りだが、
映画で使われるということは かなり珍しいのではないだろうか。
あまりにも生々しくて、
物語ではなくて、ドキュメントじゃないかと思ってしまう。
BGMがないことも それを助長している。
正確にいうと、女は、男にとって
「どうでもいいこと」を
「どうでもいいこと」とは思わないもので、
もっとストレートに、
「たまには 私の話も聞いてよ」と言う風に
切り出すものなのだ。
もちろん この私の話というものも、
男にとって 厄介であることはいうまでもない。
なぜ女の話が 男にとって苦痛なのだろうか。
それは具体的で、現実的であることの
必然として、混沌としている。
大事なことも、些細なことも どう価値なのだ。
したがって、情報伝達に時間がかかる。
うんざりする。
逆に男の話が、女にとってつまらないのは、
情報が頭の中で、1度整理されて、
重要な順に、伝達されるために、情感が伴わない。
情報が、頭の中で、男の都合の良いように、
取捨選択されている可能性があるから、胡散臭い。
女にとっても 男の議論や正論や説教など
「どうでもよいこと」なのだろう。
前者が右脳、後者が左脳の動きによるのだとすれば、
男と女は異なったチャンネルで、
相手に話しかけていることになる。
ぞっとする話だ。
3・「おかえり」
新婚時代は、曲がり角のところで、振り返って
手をふってくれていた おさな子のような夫が、
いつの間にか、夕食の約束を電話一つで、
すっぽかしてしまうほどに、「成長」する。
妻も夫とおなじように成長してしまえば
なんの問題もない。
常識的には 女は子供を産むことによって
否応なく母になる。
むしろ、妻の方が、夫よりも社会制度的ないし
文化的に成熟が促進されやすくなっているのだ。
われわれは一生のうちになんど
「ただいま」「おかえり」をくりかえすのだろう。
多くの家庭では「おかえり」は妻や、母の言葉である。
「待つ」のが女の仕事というわけではないが、
百合子は「待つ女」である。
そして”この家に独りでまっていると 時々恐くなるの”
と、いう。
精神科での臨床実験でも、男性は、
職場ストレスが 病気の引き金になり。
女性は、家事、育児、嫁姑問題、
そして夫婦関係などにおって、発病する。
夫が発病して 妄想をもつ場合、
仮想の敵(つまり被害妄想の相手)は
職場の人間になることが多いが、
妻が発病すると、
家の周囲、隣近所に仮想の敵を作る。
また稀ならず、
妄想にもとづく攻撃は、夫にも向けられる。
すなわち、夫が浮気しているのではないかという、
嫉妬妄想のことだが、
幸いなことに 百合子はこの症状はない。
発病して、夫を攻撃しはじめるという場合には、
その後の夫婦関係にも 多大の支障を与え、
しばしば離婚の危機が訪れるものだが、
この映画の基本的な救いは、
百合子は孝を決して 責めないということである。
そのため、夫は妻を想う。
夫婦であれば
だれしも配偶者の不幸に 負い目をもつ。
配偶者の死や、病気、
とくに精神の山井であれば なおさらである。
そのため、あらためて相手を思い遣る気持ちを
持ち直したというのが、この映画の優しさである。。
しかし、一般論だが、
夫が発病しても、
妻から離婚を言い出されることは
少ないのに対して、
妻が発病して長い入院生活を送ると、
夫や その親から離婚の話が持ち上がることが、
しばしばある。
1度、家から出てしまった妻が、
「おかえり」といってもらえる可能性は、
夫の場合よりも 小さいという哀しい現実も一方にある。
にもかかわらず、
映画に出てくる精神科医が、入院を勧めたのは、
比較的短期間で、百合子の妄想を消す、
治療法を持っているからである。
あらゆる病は、早期発見・早期治療が原則なのだ。
その機を逃すと、
慢性化して夫婦関係にもっと深刻な亀裂が入る
という苦い臨床経験を、
限りなくしているからである。
3・一本の木
「老・病・死・苦」できれば避けてとおりたい。
老いたり、寿命が来て 死んだりするのは、
仕方ないとしても、
病気と貧乏は 嫌なものだ。
不景気だといっても、日本人の七割以上は、
今の自分の経済状態に満足しているという。
国民生活白書によれば、
今の、日本人が自分の将来について、
不安におもっている事を 調査すると、
老後の不安。
とくに、ボケの問題にいきつく。
妻が 夫に向かって、
「失礼ですが、どちらさまで?」と尋ねる。
自分の息子を夫と間違える。
自宅にいるのに、
「家にかえりたい」とだだをこねる。
こういう場合、
長年連れ添った夫は、本当にいたたまれない。
しかし、今のところ、夫が存命のうちは、
妻を入院させるということは、
余程のことがないかぎり、ありえない。
大変だろうからと、福祉事務所が施設を紹介しても、
入所させることはめったにない。
ただし 一緒に入れるのなら医っても良いという夫は多い。
大体において、夫というものは、
妻に苦労をかけてしまったという 積年の負い目がある。
それに妻に入所されると寂しいし、
人生の最後には 付き添って、
「どうでもいい」話を、
一生懸命聞いてやらなければと考えるようだ。
もっと余裕があれば、
男もほんらい優しい生き物なのかも しれない。
逆に、かって、暴君だった夫が、ぼけると
妻子は いろんな理由をつけて病院へ入れようとする。
裏話だが、
『おかえり』の試写を観た場合、
女性にとくに 好評だったそうだ。
狂気は日常にこそ 潜んでいる。
妻達は それに敏感なのである。
映画『おかえり』に出てくる空の青さは
哀しく印象的だ。
これは 太平洋側の冬の空だ。
それに直立する 一本の木。
私が一番好きな映像だ。
かっては緑が生い茂り、
夏にはそこで、休んだ旅人がいたかもしれない。
子供がセミをとったかもしれない。
それが、今は冬を象徴している。
しかし、その木は春になれば
かならず芽をふきかえすであろう。
ただし「おかえり」の主題が、
人生の輪廻だなどと、
安直なコメントを述べているつもりはない。
日本の映画が、
ふたたび小津の世界に舞い戻ろうとしているかのような。
この作品が、今後、
どのように 評価されるのか、
今から楽しみである。
☆☆☆ なにげない日常のドキュメント ☆☆☆
高橋伸吾(精神科医)
1.「どうでもいいこと」
昔から男にとって まどろっこしい女のおしゃべりほど
嫌なものはない。
私は 精神科医だから、
患者さんのながながとした愚痴を聞かされるのには慣れている。
しかし、相手が患者さんという関係性があるために
それは聞くに堪えるのであって、
もしこれが亭主だったら さぞ大変だろうなと思うことは、
ままある。
いや男にも、女性のようにおしゃべりが好きな人種はいるもので、
女にとっても、男の語りは退屈である。
男と女が知り合って、
愛し合い、いつでも会っていたいという恋愛の初期においては、
語ることは喜びでもある。
互いに道の部分があるから、
語り合うことで 異なる世界を共有するという楽しさがある。
しかし それは普通長くは続かない。
「言葉につまるようじゃ、故意もおわりね(愛しのエリー)」
ではないが、言葉の切れ目が、男女の切れ目でもある。
要するに、男女は語るのに飽きるのだ。
大体それは三年目、
遺伝子のしわざという説もある。
しかし、稀には、サルトルとボーボワールのように、
生涯が互いに楽しい会話の相手であった夫婦も
いないわけではないが、それはふつうではない。
映画『おかえり』のなかで、
百合子が次のようなセリフを語る。
”孝が忙しいのはわかってる”
でも”たまには どうでもいいこと話したいの。
話したいんだよ。”と。
どこの夫婦でも 交わされているこんな語りだが、
映画で使われるということは かなり珍しいのではないだろうか。
あまりにも生々しくて、
物語ではなくて、ドキュメントじゃないかと思ってしまう。
BGMがないことも それを助長している。
正確にいうと、女は、男にとって
「どうでもいいこと」を
「どうでもいいこと」とは思わないもので、
もっとストレートに、
「たまには 私の話も聞いてよ」と言う風に
切り出すものなのだ。
もちろん この私の話というものも、
男にとって 厄介であることはいうまでもない。
なぜ女の話が 男にとって苦痛なのだろうか。
それは具体的で、現実的であることの
必然として、混沌としている。
大事なことも、些細なことも どう価値なのだ。
したがって、情報伝達に時間がかかる。
うんざりする。
逆に男の話が、女にとってつまらないのは、
情報が頭の中で、1度整理されて、
重要な順に、伝達されるために、情感が伴わない。
情報が、頭の中で、男の都合の良いように、
取捨選択されている可能性があるから、胡散臭い。
女にとっても 男の議論や正論や説教など
「どうでもよいこと」なのだろう。
前者が右脳、後者が左脳の動きによるのだとすれば、
男と女は異なったチャンネルで、
相手に話しかけていることになる。
ぞっとする話だ。
3・「おかえり」
新婚時代は、曲がり角のところで、振り返って
手をふってくれていた おさな子のような夫が、
いつの間にか、夕食の約束を電話一つで、
すっぽかしてしまうほどに、「成長」する。
妻も夫とおなじように成長してしまえば
なんの問題もない。
常識的には 女は子供を産むことによって
否応なく母になる。
むしろ、妻の方が、夫よりも社会制度的ないし
文化的に成熟が促進されやすくなっているのだ。
われわれは一生のうちになんど
「ただいま」「おかえり」をくりかえすのだろう。
多くの家庭では「おかえり」は妻や、母の言葉である。
「待つ」のが女の仕事というわけではないが、
百合子は「待つ女」である。
そして”この家に独りでまっていると 時々恐くなるの”
と、いう。
精神科での臨床実験でも、男性は、
職場ストレスが 病気の引き金になり。
女性は、家事、育児、嫁姑問題、
そして夫婦関係などにおって、発病する。
夫が発病して 妄想をもつ場合、
仮想の敵(つまり被害妄想の相手)は
職場の人間になることが多いが、
妻が発病すると、
家の周囲、隣近所に仮想の敵を作る。
また稀ならず、
妄想にもとづく攻撃は、夫にも向けられる。
すなわち、夫が浮気しているのではないかという、
嫉妬妄想のことだが、
幸いなことに 百合子はこの症状はない。
発病して、夫を攻撃しはじめるという場合には、
その後の夫婦関係にも 多大の支障を与え、
しばしば離婚の危機が訪れるものだが、
この映画の基本的な救いは、
百合子は孝を決して 責めないということである。
そのため、夫は妻を想う。
夫婦であれば
だれしも配偶者の不幸に 負い目をもつ。
配偶者の死や、病気、
とくに精神の山井であれば なおさらである。
そのため、あらためて相手を思い遣る気持ちを
持ち直したというのが、この映画の優しさである。。
しかし、一般論だが、
夫が発病しても、
妻から離婚を言い出されることは
少ないのに対して、
妻が発病して長い入院生活を送ると、
夫や その親から離婚の話が持ち上がることが、
しばしばある。
1度、家から出てしまった妻が、
「おかえり」といってもらえる可能性は、
夫の場合よりも 小さいという哀しい現実も一方にある。
にもかかわらず、
映画に出てくる精神科医が、入院を勧めたのは、
比較的短期間で、百合子の妄想を消す、
治療法を持っているからである。
あらゆる病は、早期発見・早期治療が原則なのだ。
その機を逃すと、
慢性化して夫婦関係にもっと深刻な亀裂が入る
という苦い臨床経験を、
限りなくしているからである。
3・一本の木
「老・病・死・苦」できれば避けてとおりたい。
老いたり、寿命が来て 死んだりするのは、
仕方ないとしても、
病気と貧乏は 嫌なものだ。
不景気だといっても、日本人の七割以上は、
今の自分の経済状態に満足しているという。
国民生活白書によれば、
今の、日本人が自分の将来について、
不安におもっている事を 調査すると、
老後の不安。
とくに、ボケの問題にいきつく。
妻が 夫に向かって、
「失礼ですが、どちらさまで?」と尋ねる。
自分の息子を夫と間違える。
自宅にいるのに、
「家にかえりたい」とだだをこねる。
こういう場合、
長年連れ添った夫は、本当にいたたまれない。
しかし、今のところ、夫が存命のうちは、
妻を入院させるということは、
余程のことがないかぎり、ありえない。
大変だろうからと、福祉事務所が施設を紹介しても、
入所させることはめったにない。
ただし 一緒に入れるのなら医っても良いという夫は多い。
大体において、夫というものは、
妻に苦労をかけてしまったという 積年の負い目がある。
それに妻に入所されると寂しいし、
人生の最後には 付き添って、
「どうでもいい」話を、
一生懸命聞いてやらなければと考えるようだ。
もっと余裕があれば、
男もほんらい優しい生き物なのかも しれない。
逆に、かって、暴君だった夫が、ぼけると
妻子は いろんな理由をつけて病院へ入れようとする。
裏話だが、
『おかえり』の試写を観た場合、
女性にとくに 好評だったそうだ。
狂気は日常にこそ 潜んでいる。
妻達は それに敏感なのである。
映画『おかえり』に出てくる空の青さは
哀しく印象的だ。
これは 太平洋側の冬の空だ。
それに直立する 一本の木。
私が一番好きな映像だ。
かっては緑が生い茂り、
夏にはそこで、休んだ旅人がいたかもしれない。
子供がセミをとったかもしれない。
それが、今は冬を象徴している。
しかし、その木は春になれば
かならず芽をふきかえすであろう。
ただし「おかえり」の主題が、
人生の輪廻だなどと、
安直なコメントを述べているつもりはない。
日本の映画が、
ふたたび小津の世界に舞い戻ろうとしているかのような。
この作品が、今後、
どのように 評価されるのか、
今から楽しみである。
『おかえり』 1996年 篠崎誠監督 その4
☆☆☆ 空間のある音楽、余白のある映画 ☆☆☆
−− 篠崎誠×リトル・クリーチャーズ −−
ーー篠崎さん
役者さんも、リハーサルで演ってみて、気持ちよかったり、
まわりも、それいいよっていうと、
その再現に、一生懸命になって、
感情を置いてきぼりにして、
ひとつの「形」になっちゃう。
かと言って「気持」ばっかりだと演じる本人はいいけど
観てる方には 伝わらなかったり。
「形」と「気持」の間が大切。
ーー栗原さん
『おかえり』は、ワン・カットが長いでしょう。
「あれ?今のは、もしかして セリフを間違えたのかな」
と、いう箇所があっても、そのまま ずっと使ってて。
そうすると、演技が、
もう演技じゃなくなってるように見える。
ーー篠崎さん
そう、言ってもらえると嬉しいです。
役者の感情が動くのを ずっと観ていたいって気持ちがあるんです。
だから、使わないと 解っていても、
じーっと表情が変わるのを待ったところなんかもある。
必要なところだけ、撮るのがプロって言われるんだけど、
それより自分の見たいものが見たい。。
だから効率の悪い映画作りっていうのを目指しているんですよ(笑)。
トイレの中に百合子が閉じこもっちゃうシーンにしても、
リハーサルでは、彼女は泣きながら出てきたんですが、
本番では、泣きたくなかったら泣かなくてもいいし、
出たくなかったら ずっと入っててもいいよって、言ってあった。
ある部分を 運を天に任せる、
その場の瞬間に賭けるっていうところがないと、面白くない。
それが、必ずしも良くなるかどうかってのは、
キワキワですけど。
あそこは役者の感情を 切りたくなかったので、
二台のキャメラを使って 20分近く、切れ目なしで撮ったんです。
役者がそういう感じで、頑張ってると、
スタッフも、こうやったら もっと良くなるだろうって、
ちゃんと動いてくれる。
なんていうか、「映画」を中心にして、
全てがうまくまわり始める瞬間があるんです。
あのシーンでは、普通なら、彼女がトイレに入ってしまった時点で、
余計な雑音が入らないように、ワイヤレスマイクは
しぼっちゃうんだけど、
「本番でも、泣くかもしれないから、
そのマイク生かしたままにしてください」って、
録音の栗林さんに頼んだんです。
あのシーンがOKになった時、栗林さんが紙切れに
「百合子の泣き声サイコー」みたいなことを書いて、
無言で、渡してきてくれて。。。
どの程度の泣き声かわからないから、
ヴォリュームの調整とか、難しかったはずなんです。
☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
ーー栗原さん
映画音楽がないぶん『おかえり』も、
マンションでの音が、すごく印象的なんですよ。
子供の声、野菜を切る音、電車の通る音。。。。。
実際ああいう場で、ああいう生活を淡々と繰り返してたら
システムの中の、一つの歯車みたいな感じがしてくるかなあと思う。
ーー青柳さん
昔の長屋での人間関係・・
醤油借りたりとか、冠婚葬祭で顔合わせたり、とか、
でも、今は隣の人の顔を知らない。
『おかえり』でも 隣の人がまったく出てこない。
ーー栗原さん
公園で、お爺さんが、子供連れて話しかけてくるでしょ。
あの世代の人たちって、
人とのコミュニケーションとることが上手だったりする。
でも、
今はなかなか ああいう会話もないのが現状で、。。。。
そういう今の都会の生活が 感じ取れますよね。
☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
☆☆☆ 空間のある音楽、余白のある映画 ☆☆☆
−− 篠崎誠×リトル・クリーチャーズ −−
ーー篠崎さん
役者さんも、リハーサルで演ってみて、気持ちよかったり、
まわりも、それいいよっていうと、
その再現に、一生懸命になって、
感情を置いてきぼりにして、
ひとつの「形」になっちゃう。
かと言って「気持」ばっかりだと演じる本人はいいけど
観てる方には 伝わらなかったり。
「形」と「気持」の間が大切。
ーー栗原さん
『おかえり』は、ワン・カットが長いでしょう。
「あれ?今のは、もしかして セリフを間違えたのかな」
と、いう箇所があっても、そのまま ずっと使ってて。
そうすると、演技が、
もう演技じゃなくなってるように見える。
ーー篠崎さん
そう、言ってもらえると嬉しいです。
役者の感情が動くのを ずっと観ていたいって気持ちがあるんです。
だから、使わないと 解っていても、
じーっと表情が変わるのを待ったところなんかもある。
必要なところだけ、撮るのがプロって言われるんだけど、
それより自分の見たいものが見たい。。
だから効率の悪い映画作りっていうのを目指しているんですよ(笑)。
トイレの中に百合子が閉じこもっちゃうシーンにしても、
リハーサルでは、彼女は泣きながら出てきたんですが、
本番では、泣きたくなかったら泣かなくてもいいし、
出たくなかったら ずっと入っててもいいよって、言ってあった。
ある部分を 運を天に任せる、
その場の瞬間に賭けるっていうところがないと、面白くない。
それが、必ずしも良くなるかどうかってのは、
キワキワですけど。
あそこは役者の感情を 切りたくなかったので、
二台のキャメラを使って 20分近く、切れ目なしで撮ったんです。
役者がそういう感じで、頑張ってると、
スタッフも、こうやったら もっと良くなるだろうって、
ちゃんと動いてくれる。
なんていうか、「映画」を中心にして、
全てがうまくまわり始める瞬間があるんです。
あのシーンでは、普通なら、彼女がトイレに入ってしまった時点で、
余計な雑音が入らないように、ワイヤレスマイクは
しぼっちゃうんだけど、
「本番でも、泣くかもしれないから、
そのマイク生かしたままにしてください」って、
録音の栗林さんに頼んだんです。
あのシーンがOKになった時、栗林さんが紙切れに
「百合子の泣き声サイコー」みたいなことを書いて、
無言で、渡してきてくれて。。。
どの程度の泣き声かわからないから、
ヴォリュームの調整とか、難しかったはずなんです。
☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
ーー栗原さん
映画音楽がないぶん『おかえり』も、
マンションでの音が、すごく印象的なんですよ。
子供の声、野菜を切る音、電車の通る音。。。。。
実際ああいう場で、ああいう生活を淡々と繰り返してたら
システムの中の、一つの歯車みたいな感じがしてくるかなあと思う。
ーー青柳さん
昔の長屋での人間関係・・
醤油借りたりとか、冠婚葬祭で顔合わせたり、とか、
でも、今は隣の人の顔を知らない。
『おかえり』でも 隣の人がまったく出てこない。
ーー栗原さん
公園で、お爺さんが、子供連れて話しかけてくるでしょ。
あの世代の人たちって、
人とのコミュニケーションとることが上手だったりする。
でも、
今はなかなか ああいう会話もないのが現状で、。。。。
そういう今の都会の生活が 感じ取れますよね。
☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆ーーー☆
『おかえり』 1996年 篠崎誠監督 その3
※つづき。
机の上で、妻のゆり子が、
指でピアノを爪弾く動作をする シーンが好きだ。
聞こえるはずのないその曲は『月光』
夫には聞こえている。
よしよし大丈夫! 大丈夫!
妻の、長い髪の毛をかき上げてやり、
ちょんちょんと、泪を拭いてやる夫。
その優しい 甲斐甲斐しさが胸をうつ。
眉間に深い皺を寄せて、泣きじゃくる妻に、
ここ、力はいっちゃってるよ。。と。
優しく、妻の眉間を、指で軽く押さえつつ、
あたたかく、やわらかく、揉みほぐしてやり、
心を解きほぐそうとする夫。孝。
「大丈夫だからさぁ〜
一緒にちゃんと、一緒に行くんだから、
大丈夫なんだよ。おまえ。。。
離れ離れになんかさあ。
なんないんだからさあ。。
信用してくれよぉ〜」
と、夫、孝の、
台所での、よしよしと抱きかかえるシーンに、
胸に、小さな、痛みが走る。
幻覚と、妄想のひどくなってしまった妻を、
この夫は、見捨てることをせず、
最後まで見守って行こうとするかのような、
己への、決心の言葉にも聞こえる。
生であれ、死であれ、
結果的に完治しうるものなのかは、
想像でしかありえないが、
どういう結果となったとしても、
最後まで一緒に、
妻のそばに 居てやろうというような、
孝の気持ちが、感じ取れるような場面である。
ふたり一緒に、添い遂げていってほしい。
なんとしても 生きていって欲しいと願う作品である。
前回見た時には、私自身にも、
母が心臓に人口弁を2つ。入れるという 大手術を、
東京医大にて、受けている最中でもあり、、
一ヶ月半を まるまる、
新宿の都庁の周りのホテルを 泊まり歩きながら
付き添っていたという時期でもあったために、
今とはまた全然、映画を見た後の、
感想も まったく違っていたものになっていた。
死というものが、身近だったせいもあってのことか、
あの二人が見つめていた 冬の海が、
死へのいざないのように 見えたものだった。
なぜだか、涙が止まらずに、
独り、大泣きしてしまった記憶がある。
だから、去年「寺島ナイト」で もう一度、見るまでは、
目頭の痛い映画という、記憶の痛みしか残ってはいなかった。
だが、「寺島ナイト」で見た時には、
また、感情が、ちがっていて、
心にすうーっと。しみいってくるような、
優しさと優しさの育みあい、
と、言ったような、
あたたかなものが、伝わってきた。
こんなにも、お互いを求め合い、
必要としている。
傍に居てほしい。
傍に居てあげたい。。という。
ふたりの心。
ふたりの絆の強さに惹かれるものを覚える。
そして、お互いが、お互いを、
いつでも、見つめ続けてあげること。
どんな小さなことでも。。
夫の喜ぶこと、
妻の喜ぶこと。
同じ魂のつながりあい。。
そんなものの大切さを感じた。
妻のゆり子が、さまよった挙句、
いつもの枯葉の上で眠ってしまい、
そっと、後からついてきた夫が、
妻を起こさないように、そうっと膝枕をして、
じーっと、見守り続けている。
あの、ふたりの姿が、とても印象的なシーンだ。
見上げて見詰め合う二人。
とても、美しい情景だ。
ありのままの美しさに。ほろり。。と。
ーー
とっても素敵な寺島進さんを、
ぜひぜひ、どうぞ。
※つづき。
机の上で、妻のゆり子が、
指でピアノを爪弾く動作をする シーンが好きだ。
聞こえるはずのないその曲は『月光』
夫には聞こえている。
よしよし大丈夫! 大丈夫!
妻の、長い髪の毛をかき上げてやり、
ちょんちょんと、泪を拭いてやる夫。
その優しい 甲斐甲斐しさが胸をうつ。
眉間に深い皺を寄せて、泣きじゃくる妻に、
ここ、力はいっちゃってるよ。。と。
優しく、妻の眉間を、指で軽く押さえつつ、
あたたかく、やわらかく、揉みほぐしてやり、
心を解きほぐそうとする夫。孝。
「大丈夫だからさぁ〜
一緒にちゃんと、一緒に行くんだから、
大丈夫なんだよ。おまえ。。。
離れ離れになんかさあ。
なんないんだからさあ。。
信用してくれよぉ〜」
と、夫、孝の、
台所での、よしよしと抱きかかえるシーンに、
胸に、小さな、痛みが走る。
幻覚と、妄想のひどくなってしまった妻を、
この夫は、見捨てることをせず、
最後まで見守って行こうとするかのような、
己への、決心の言葉にも聞こえる。
生であれ、死であれ、
結果的に完治しうるものなのかは、
想像でしかありえないが、
どういう結果となったとしても、
最後まで一緒に、
妻のそばに 居てやろうというような、
孝の気持ちが、感じ取れるような場面である。
ふたり一緒に、添い遂げていってほしい。
なんとしても 生きていって欲しいと願う作品である。
前回見た時には、私自身にも、
母が心臓に人口弁を2つ。入れるという 大手術を、
東京医大にて、受けている最中でもあり、、
一ヶ月半を まるまる、
新宿の都庁の周りのホテルを 泊まり歩きながら
付き添っていたという時期でもあったために、
今とはまた全然、映画を見た後の、
感想も まったく違っていたものになっていた。
死というものが、身近だったせいもあってのことか、
あの二人が見つめていた 冬の海が、
死へのいざないのように 見えたものだった。
なぜだか、涙が止まらずに、
独り、大泣きしてしまった記憶がある。
だから、去年「寺島ナイト」で もう一度、見るまでは、
目頭の痛い映画という、記憶の痛みしか残ってはいなかった。
だが、「寺島ナイト」で見た時には、
また、感情が、ちがっていて、
心にすうーっと。しみいってくるような、
優しさと優しさの育みあい、
と、言ったような、
あたたかなものが、伝わってきた。
こんなにも、お互いを求め合い、
必要としている。
傍に居てほしい。
傍に居てあげたい。。という。
ふたりの心。
ふたりの絆の強さに惹かれるものを覚える。
そして、お互いが、お互いを、
いつでも、見つめ続けてあげること。
どんな小さなことでも。。
夫の喜ぶこと、
妻の喜ぶこと。
同じ魂のつながりあい。。
そんなものの大切さを感じた。
妻のゆり子が、さまよった挙句、
いつもの枯葉の上で眠ってしまい、
そっと、後からついてきた夫が、
妻を起こさないように、そうっと膝枕をして、
じーっと、見守り続けている。
あの、ふたりの姿が、とても印象的なシーンだ。
見上げて見詰め合う二人。
とても、美しい情景だ。
ありのままの美しさに。ほろり。。と。
ーー
とっても素敵な寺島進さんを、
ぜひぜひ、どうぞ。
『おかえり』 1996年 篠崎誠監督 その2
※つづき。
今、現代の世情とは大違いで、
携帯電話の普及も、まだまだであったし、
ネットや オンラインゲームなども、あるわけでもなく、
ワープロでひとり、黙々と、仕事をしながら、
ひたすらに、 愛しい夫の帰りを待ちわびている。
閉鎖的なマンションの一室で。
子供が居るわけでもなく、
可愛がる、ペットも居ない。
同じ繰り返しの毎日を、
たった一人で、
誰と会話することもなく、ぽつねんと、
夫の帰りをひたすら待っているのだ。
庭くらいあったら、
もう少し違っていたのかもしれない。
お花を育て、色とりどりの季節を感じ。。
と。
だが、彼女は いつもいつも、
夫の帰りを待ちわびながら、
自室の窓から 夫を見送り、
ただただ、ひたむきに、
夫の帰りを、
首をながーくして、待ちわびるのみ。
いつ、帰ってくるかと、
窓の下の道すがらを、
見送ったままの心を抱きながら、
眺めて過ごす 妻の姿が胸をうつ。
とてもせつない。
また、そんな心の危険信号に、
いち早く気づいて上げられる夫の孝。
こんなに早く、
気づいて上げられる夫は何人いるだろうか?
また、こんなに優しく、見守ってくれるものだろうか?
声を荒げるでもなく、
優しい口調で声を掛ける夫。
妻と同じ目線に立って、
物事を見ようとする 夫がいる。
ひとりで見回らないと意味がないと言う、
妻のかわりに 自分が見回りに行こうという夫。
少しつつ。思い当たる。夫がいる。
決して自分を責めたことがない 妻が居る。
※つづく。
※つづき。
今、現代の世情とは大違いで、
携帯電話の普及も、まだまだであったし、
ネットや オンラインゲームなども、あるわけでもなく、
ワープロでひとり、黙々と、仕事をしながら、
ひたすらに、 愛しい夫の帰りを待ちわびている。
閉鎖的なマンションの一室で。
子供が居るわけでもなく、
可愛がる、ペットも居ない。
同じ繰り返しの毎日を、
たった一人で、
誰と会話することもなく、ぽつねんと、
夫の帰りをひたすら待っているのだ。
庭くらいあったら、
もう少し違っていたのかもしれない。
お花を育て、色とりどりの季節を感じ。。
と。
だが、彼女は いつもいつも、
夫の帰りを待ちわびながら、
自室の窓から 夫を見送り、
ただただ、ひたむきに、
夫の帰りを、
首をながーくして、待ちわびるのみ。
いつ、帰ってくるかと、
窓の下の道すがらを、
見送ったままの心を抱きながら、
眺めて過ごす 妻の姿が胸をうつ。
とてもせつない。
また、そんな心の危険信号に、
いち早く気づいて上げられる夫の孝。
こんなに早く、
気づいて上げられる夫は何人いるだろうか?
また、こんなに優しく、見守ってくれるものだろうか?
声を荒げるでもなく、
優しい口調で声を掛ける夫。
妻と同じ目線に立って、
物事を見ようとする 夫がいる。
ひとりで見回らないと意味がないと言う、
妻のかわりに 自分が見回りに行こうという夫。
少しつつ。思い当たる。夫がいる。
決して自分を責めたことがない 妻が居る。
※つづく。




