★由比宿
★・・お七里役所をつくった背景・・・★
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★・・お七里役所をつくった背景・・・★

・・・参考資料・・・・
「徳川三代なるほど事典」 「徳川将軍家への反逆」

頼宣は、
慶長7年(1602)、京都伏見城で生まれた。
母はお万の方(蔭山殿)である。

駿府で家康に育てられ、
慶長14年に、東海道の要衝、
駿河・遠江・東三河53万石に転封されている。

家康の死により、
そのまま駿府城主となっていたが、
元和5年(1619)、二代将軍秀忠の要請を受け、
紀伊55万5千石に転封した。

「御三家」紀州藩の誕生である。
18歳のときであった。

時は移り、
寛永9年(1632)秀忠没後、
将軍家光とその閣僚たちは、
堰を切ったように新政権の確立にはしりだした。

生まれながらの将軍たる家光は、
たとえ御三家・御親藩といえども、
有無を言わせぬ将軍への臣従を求め、
その権威を磐石のものとすべく図っていったのである。

この時期、
頼宣はまだ30歳を出たばかりの青年藩主として、
御三家の一翼を担っていたが、しかし、
周辺の状況は大きな変化を遂げていた。

父家康、兄秀忠はすでに亡く、
臣従する現将軍は、年下の甥の家光である。
同じ臣従ではあっても、
秀忠時代のような兄弟としての情愛はなくなっていた。

しかも家光政権の核は、
家光のブレーンたちによる強力な官僚政治であった。
家格に対する敬いはあっても、
幕府の政治に御三家が参与するなど、
基本的に無理な構造となったいたのである。

頼宣の胸奥には、不満と虚しさだけが積もっていった。

それからほぼ20年 ― 頼宣の欝然たる思いを宿したまま、
家光政権はますます揺るぎのない幕藩体制を整えていった。

その間、頼宣もまた、
紀伊藩の藩政強化に努めるいっぽう、
社会問題化していた増加を重ねる浪人救済に力を尽くしていた。

慶安4年(1651) 4月、三代将軍・徳川家光が逝去。

そして3ヵ月後、将軍交代という
不安定な過渡期を狙いすましたように「慶安の変」は起こった。

由比正雪や丸橋忠弥らの
幕府転覆を企てた反逆事件である。

幕府は、事件の黒幕として頼宣を疑った。
頼宣は灰色の嫌疑をかけられたまま、
四代将軍が幼年の間は江戸に在府するよう命じられた。

幼君家綱の補佐というのがその理由であった。
頼宣が帰国を許されたのは、それから8年後であった。

頼宣はその後も、
常に幕府から警戒の目で見られてはいたが、
問題を起こすことなく、寛文7年(1667) に隠居し、
同11年(1671)70歳で没した。

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奇しくも、由比正雪の生まれた生家というのが、
由比の本陣屋の真向かいに、現在もなお残っている。
中を覗くと、紺屋を営んでいたという、
店番をしている女性に話を聞くと、
なんと、20年くらい前まで、実際にお兄さんたちが
染めていたそうである。

藍甕がたくさん並んでいる。

由比正雪の首塚は、すぐ傍の愛宕霊園にある。



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2008/09/30 

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